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京都地方裁判所 昭和52年(ワ)89号 判決

原告

滝田美紀子

右訴訟代理人

折田泰宏

右訴訟復代理人

小山千蔭

被告

石野琢二郎

右訴訟代理人

筋立明

右訴訟復代理人

一岡隆夫

主文

一  被告は原告に対し金四七〇万円及び内金四二〇万円に対する昭和五二年一月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決中原告勝訴の部分は原告に於て金一〇〇万円の担保を供するときは仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

第一原告の乳房の病状及び診療(手術)経過

昭和四八年八月三日、被告石野琢二郎医師の経営する石野外科病院において訴外山本剛史医師が原告の右乳房の切除手術をしたこと、病理組織検査の結果それが乳腺線維腺腫と判明したこと、右手術の後に発熱があり、手術創が化膿していることが判つたため再度切開しその後治癒したこと、現在原告に手術痕があることは当事者間に争いがない。

右争いのない事実に〈証拠〉を総合すると次のとおりである。

一原告(昭和一九年四月一七日生)は昭和三七、八年頃から右乳房の内下方にしこりのあることに気付き、同四二、三年頃はくるみ大のものであつたが、痛みや身体にその他の異常がなかつたことからそのまま放置していたところ、その間に直径約三センチメートル位になりさらに少しずつ大きくなつているように感じられたので昭和四八年八月一日、近所の開業医で以前かかつたことのある訴外北川内科で受診した。その結果同医師は乳腺線維腺腫の一種のように思うと述べ、被告の経営する石野外科病院を紹介したので、原告は同じ日にその足で同病院に赴いた。なお原告は昭和四四年七月に結婚した。

二昭和四八年八月一日石野外科病院で原告はまず山本剛史医師(昭和四五年一一月医師免許取得)の予診を受けた。同医師は原告に問診を行ないその結果をカルテ(乙第一号証)に次のように記載した。「五、六年前から右乳房内下方にクルミ大の腫瘤を認める。放置、最近少し大きくなつたように思う。痛み軽度に有り。腫瘤の大きさは月経(規則的)に関係しない。」なお原告に妊娠歴はなく山本医師は原告に妊娠歴の有無を問診しなかつた。

山本医師の予診の後原告は行森清治医師(昭和三八年五月一七日医師免許取得)の診察を受けた。同医師は右の問診の補充をし、既往歴やリンパ腺のしこりの有無について尋ねた後、原告の上半身を裸にして坐位及び仰臥位で乳房及び腋窩を触診した。それによると腫瘤はでこぼこ(h〓ckrig)しており、固く(hart)、可動性が有つて胸筋等の癒着はなく、又腋窩リンパ腺への転移はなかつた。その形状はほぼ球形であるが、表面に凹凸があつた。同医師は右診察の結果乳癌と診断しカルテ「癌(クレブス)なるべし、手術(OP)」と記載して原告に「非常に疑わしいですね」と告げ、原告が「癌ですか」と問い返すと大きく肯いた。そして若い人は転移が早いから一日も早く手術すべきだと述べ、原告が他に検査方法はないのかと聞くと、腫瘤が小さいうちは組織検査はできるが、ここまで大きくなると切開することにより癌線胞が散らばり命とりになりかねないから検査はできないという趣旨のことを答えた。同医師は原告に直ぐにも入院するかどうか尋ねたが、原告は家族に相談して決めることにし、その日は帰宅した。原告によると山本医師、行森医師の両診断とも所要時間は、五、六分位づつであつたという。

三原告はその日母親らに相談した結果、手術を受けることに決め翌日の八月二日午後石野外科病院に入院し血液、尿検査を受けた。被告は原告の主治医を前記山本剛史医師とし、翌三日に手術をすることにした。八月二日の四時頃山本医師は病室(二人部屋)で原告を診察したが、若い女性であることや同室者がいることなどから衣服を十分に脱がせずに、手掌で腫瘤の触診をしただけであつた。翌三日午前八時三〇分頃被告は病院の医師(院長である被告以下五、六名の医師)全員と共に原告を回診したが、この時被告ら医師が原告の衣服を脱がせて診察するようなことはなく、ただ山本医師が当日午後手術をする予定であることを告げただけであつた。

山本医師は当時被告の病院に研修という形で勤務しており、乳癌の経験も少なかつたことから行森医師の診断した癌なるべしというカルテの記載をみて、原告は乳癌であると判断し、乳癌の固さや形状を触診によつて判別する経験を積むべく、原告を触診したものであり、自己の触診の結果から癌と診断したのではなかつた。又被告は行森医師の診断結果を信頼して八月三日に原告を手術することを決めたものであり、被告及び副院長の為森医師が原告を問診、視診、触診したことはなかつた。〈証拠判断略〉

四原告の手術は前記山本医師が執刀し、為森副院長(昭和一九年一一月医師免許取得)がこれを指導する立場で立会い、八月三日午後一時三〇分頃開始された。

術式は右乳房切断術で、乳房の切断、大胸筋の切除(小胸筋は残した)、腋窩の郭清がなされ、ドレーン(排液管)を一本挿入し、テラマイシン(抗生物質)を創部に注入して、午後三時一五分に手術は終了した。問題の腫瘤は各径が2.5×3×3(センチメートル)の球形をしており、乳腺組織と連なつていた。この腫瘤の切断はフォルマリンで固定されて同月四日病理組織検査に回され、同月九日この腫瘤は管周囲性の線維腺腫であることが判明した。

五術後四日目の八月六日夕方、原告にせきがあり、主治医の山本医師は肺炎を疑つた。翌八月七日に熱が三八度以上に上昇したのでそれまで投与されていたピクシリン(抗生物質)に加えてセポラン(抗生物質)が投与された。ところが八月八日には右胸部の皮下が一面に腫れ、熱は更に上昇して明らかな手術創部の化膿が認められたので、同日山本医師の執刀、被告の立会のもと排膿のための手術が行われた。この手術経過は次のとおりである。

前胸部の縫合を除去すると濃厚な膿が多量に排出され、底部は壊死性でフイブリンにおおわれていた、腋窩部も切開すると膿が出てきた、前胸部の皮膚緊張をとるため皮膚欠損(乳房切断による)をそのままにしてガーゼで被つた。

このように相当重篤な感染による化膿があり、この手術前に原告の夫は被告により生命の危険のあることを示唆された位であり、又手術中に被告は山本医師に対して叱責するように「シアリアス(重篤)である」と言つた。これは術後感染症であつて手術の際患部にブドウ状球菌が入り化膿し悪化したものであつた。

六その後右化膿は快方に向かい同年九月二二日原告は退院した。原告は手術後山本医師や看護婦に組織検査の結果を尋ねたが、まだ検査結果は出ていない、判れば主治医から知らせるとのことであつたので返事を待つていたが、山本医師からは何の連絡もなかつた、退院の直前原告の母親が被告に検査結果を尋ねたところ、悪性ではなかつた。詳しくは主治医から聞くようにと言われたため、退院して二日目頃原告は山本医師に検査結果を問い質した。これに対し同医師は腫瘤は線維腺腫で良性のものであり、通院してその部分だけ切りとれば済む簡単な手術でよかつたのだと答えた。

七原告は昭和五一年三月から夫と別居し、昭和五二年四月協議離婚したが、これは乳房を切断する手術を受けたことと直接関係ないものの、手術により体力が弱り夫に不愉快な思いをさせたことはあつた。

現在原告の右胸には乳房切断術後の皮膚縫合痕及び白色の皮膚欠損痕が残り、又腋窩及び右背部には排膿術の際の切開痕が三か所残つて、醜状を呈している。

〈証拠判断略〉

第二乳癌の診断について

〈証拠〉によれば次のとおり認められる。

一乳癌とその類似疾患について

乳腺の腫瘤を主訴とする疾患は乳癌のほか乳腺線維腺腫、乳腺症、乳腺肉腫、乳腺乳頭腫、慢性・急性乳腺炎などがあり、悪性腫瘍である乳癌との鑑別診断が必要である。右の疾患のうち乳癌との鑑別で特に問題になるのは乳腺症及び本件の乳腺線維腺腫であるので、次に詳述する。

(一)  乳癌

乳癌は放置すると生命を奪う悪性腫瘍である。世界各国と比較して日本では少ないといわれているが、近年増加する傾向にあり、なるべく小さな腫瘤のうちに発見し適切な治療を開始することが望まれている。乳癌の頻度は乳腺腫瘍の約八〇パーセントを占める。好発年令は四〇歳代及び五〇歳代であり、六〇歳代、七〇歳代及び三〇歳代がこれに次ぐ。その年令分布を表にすると次のとおりである。(甲第三号証)

二〇歳代

三六例

一・七%

三〇歳代

三八二例

一八・三%

四〇歳代

八三九例

四〇・一%

五〇歳代

五三八例

二五・七%

六〇歳代

二一九例

一〇・五%

七〇歳以上

七六例

三・六%

乳癌において腫瘤は重要な症状でこれに触れるのを原則とする。無痛比較的限局性で硬く、表面は不平凹凸であり境界は不明確、早期に乳腺実質と癒着して移動困難となる。腫瘤の発育は一般に迅速で皮膚や胸筋、さらに骨性胸郭と癒着するに至る。転移はリンパ行性にも血行性にもおこる。リンパ行性転移は乳房外側の癌の場合には同側の腋窩リンパ節に現われるのが普通で鎖骨下リンパ節から鎖骨上リンパ節へと形成される。乳房内側の癌の場合には胸骨旁リンパ節とともに腋窩リンパ節に形成される。血行性転移は原発巣から直接又はリンパ略を経て静脈面から起こる。臨床上晩期に起こることが多いが、かなり早期にも起こる。肺、骨、肝に多い。

(二)  乳腺線維腺腫

乳腺腫瘍の五ないし一〇%を占め、良性腫瘍のうちでは最も多い。単発することが多いが、多発することもある。二〇〜三五歳の婦人に最も多い。分類としては管周囲型、管内型、巨大線維腺腫などがある。定型的なものすなわち管周囲型及び管内型は通常数センチメートル、せいぜい大きくても三、四センチメートルの球状又は球型、硬く、表面平滑、境界明瞭、可動性があり、皮膚との癒着や基底との癒着はなく、圧痛はない。治療としては腫瘤摘出術を行う。

(三)  乳腺症

女性ホルモンと男性ホルモンとのアンバランスによつて起こり、卵巣ホルモンが優位になつて乳腺を刺激することにより腫瘤が形成される。更年期の女性に多い。乳癌と最も間違いやすく乳癌との鑑別が困難である。

二乳癌の診断方法

乳癌の診断方法を要約すると次表のとおりである。

診察

臨床診断

問診

視診

触診

聴診

補助診断法

理学的診断

マンモグラフィー

ゼログラフィー

コンピューター

トモグラフィー

(X線診断)

エコーグラフィー(超音波診断)

ジアフアノグラフィー(赤外線フィルムによる透光法)

シンチグラフィー(放射線同位元素による)

サーモグラフィー(皮膚温度差による診断)

外科的

細胞診断

細胞診

乳頭分泌細胞診

穿刺吸引細胞診

組織診断

生検

切除生検

剔除生検

以下各々の診断方法についてみていく。

(一)  臨床診断

(イ) 問診

問診すべき事項としては次のものがある。

1 ホルモン関係

月経の始期、状況、結婚妊娠歴、出産回数、流産(人工、自然)回数、哺乳の態様(人工栄養か母乳か)等

2 腫瘤について

腫瘤に気付いた時期、動機(痛んだために気付いたのか、どうか)、腫瘤の大きさの変化の有無、痛みの有無、月経の前後で腫瘤に変化がないかどうか、その大きさ、固さの程度等、たとえば一〇年以上も同じ大きさの腫瘤がある場合や押すと痛みを感じる場合などは癌を否定する要素となる。

3 年令

患者の年令は乳腺腫瘍の診断の参考になる次の調査がある。(藤田吉四郎、渡辺弘、乳腺腫瘍の診断と年令との関係)

(a) 一九歳以下では線維腺腫が八八%で癌はなく乳腺症その他の疾患はそれぞれ六%に過ぎない。

(b) 二〇〜二五歳においても一九歳以下と殆んど同率である。

(c) 二六〜二九歳になると癌が一一%発見されたが最も高率であるのは線維腺腫の五五%で乳腺症が二七%とやや多くなつてくる。

(d) 三〇歳代では線維腺腫が三二%とやや減少し、乳腺症が三六%、癌が二四%と増えてくる。三主要疾患が入り混つた格好になる。

(e) 四〇歳代になるとはじめて癌が四一%で最高比率を示し乳腺症も三〇歳代と並んで最も高い。線維腺腫は著明に減少する。

(f) 五〇歳代では癌の占める率は飛躍的に高まり七三%を示し、乳腺症、線維腺腫はあわせて二〇%に過ぎない。

(g) 六〇歳代では癌が八六%である。

(ロ) 視診

視診は必らず上半身を裸にして坐位又は仰臥で行う。それは両側の乳房を視なければならないし、又乳癌は背骨などに転移するからであり、上半身を裸にして視診することは常識である。

まず顔色や貧血の有無をみる。乳癌患者は黒みないし黄色がかつた顔色をしている。次に乳房の状態すなわち左右乳房の形態の差異、皮膚の膨隆さらには潰瘍の有無、乳頭の形状、向きや分泌物の有無、皮膚の陥凹、手を挙上又は乳房を手の掌で持ち上げたときのデインプリング(えくぼ症状)の有無等をみる。潰瘍陥凹等が認められれば乳癌の可能性が強い。又乳腺症では乳頭からの出血があることがある。

(ハ) 触診

乳腺腫瘍の臨床診断では触診が最も大切な基本的診断法である。まず第一に腫瘤の有無を確認し、腫瘤を発見すればその形、大きさ、固さ、表面の性状、境界、癒着の有無(移動性)、圧痛などを調べる。更に腋窩リンパ節の腫張、硬度等を触診しなければならない。

(a) 硬度について

腫瘤の硬度は乳腺腫瘍の診断で最も重要な指標である。鑑定人藤森正雄は、固さの表現はドイツから持ち込まれたものであり、「固(hart)」、「硬(derb)」、「軟(weich)」の順に軟らかくなり、「固」の中でも鉄様、石様、骨様等の表現方法がある。乳癌には様々の種類があり比較的軟らかいものから固いものまであるが、一般には弾性硬(elastisch derb)というのが乳癌の典型的な固さである、線維腺腫の場合は骨様固(knocen hart)といわれており、一般論では線維腺腫が、乳癌や乳腺症よりも固いであろう。乳腺症は軟らかく、嚢腫があるときは波動感があると述べている。しかし前掲甲第三号証(「早期乳癌臨床と病理」藤森正雄監修、久野敬二郎執筆分)においては、「乳癌は一般には乳腺の良性腫瘍より硬い。粘液癌と髄様癌は瘤の中では軟らかい方で線維腺腫に似ているが、よく触れてみると線維腺腫よりは少し固く感じる。」とあり、又鑑定人美馬陽の鑑定の結果によると、乳癌検診の手引として作成された「主な乳腺腫瘤の触診所見」の表中における乳癌の硬度は、硬性癌は木様硬、その他の乳頭腺癌、髄様癌、面疱瘤はいずれも比較的硬とされ、線維腺腫は木様硬―弾性硬とされていることが認められ、乳腺腫瘤の硬度については定説があるとは云い難く、又乳癌の種類により硬度も異る点では異論がないから、硬度だけでは鑑別診断の決定的な決め手にはならないと認められる。

(b) 大きさについて

乳癌は無制限に発育する悪性腫瘍であるから、その大きさは小さいものから頭の大きさ位に至るまで様々であり一定しない。線維腺腫の場合は巨大線維腺腫という例外を除けば、最大限三、四センチメートル位である。

(c) 表面の性状について

乳癌では表面は平らでなく不平であり、更に程度が増して凹凸のときもある。これに対し線維腺腫では平滑であり、乳腺症では不平である。

(d) 癒着(可動性)について

乳癌は早期には癒着が起こらないが進行すると胸筋胸壁との癒着が生じる。線維腺腫や乳腺症では癒着は起きない。

(e) 境界について

乳癌の腫瘤の境界は不鮮明であり、乳腺症ではそれよりさらに不鮮明であるが、線維腺腫の境界は明瞭である。

(ニ) 聴診

乳癌は肺に転移することがあるので聴診をするのが原則である。

(ホ) 以上の問診、視診、触診、聴診という四つの通常の診断方法は医師が必ず行わなければならない重要なものであり、又特に触診により癌特有の固さの判別を体得するには長年月の熟練を要するといわれている。

(二)  補助診断法

右のルーテインに行われる診断法には自ずから限界があり、正確を期しがたいので現在では次のような種々の補助診断法が行われている。

(イ) X線診断法

1 マンモグラフィー

X線の透過像から診断しようという試みは古くから行われ、単純乳腺撮影法(シンプルマンモグラフィー)は現在でも最もルーテインに行われている容易でしかも確度の高い診断方法である。肺や心臓を撮るレントゲン撮影の機械ではやつてできないことはないが、できあがつたX線像の読影はむずかしいので、マンモグラフィー専用の撮影装置及びフィルムを用いる。乳癌のX線像は、腫瘤の陰影の濃度が良性腫瘍より高くかつ不均一で腫瘤影辺縁の不整、凹凸、針状突起があるのに対し、良性腫瘍では一般に辺縁整、均等な陰影を示す。

2 ゼロラジオグラフィー

特殊なX線診断の一つである。普通のX線撮影の場合のフィルムに代わり、半導体のセレン板を用いてX線照射をして色素粉末を吹きつけて画像を作成し、これを紙に転写して観察する。鮮明で極めて見易い画像が得られる。これは一九四七年アメリカのゼロックス社により開発され、我国では昭和三六年東芝がこの装置を作つたが、その後機械の製造が中止されていた。しかし昭和五〇年にゼロックス社の機械が輸入されてから再びゼロラジオグラフィーが乳癌診断に用いられるようになつた。

(ロ) 超音波診断法

我国では優秀な超音波診断装置が作られ乳癌の診断にも用いられ多くの成績が発表されている。ことに昭和三一年菊池、田中、和賀井らによる超音波断層写真法が発表され、優れた診断成績が発表されるようになつた。この診断法は超音波を入射し病巣などからの反射波を観察するもので、乳腺内部に描写された異常中空像の輪郭の整、不整、その強弱等から判定する。

(ハ) サーモグラフィー

乳癌の発生増大に伴う血管増生による局所の血流の増加が温度を上昇させることに注目し、乳房の皮膚温度分布像を作り診断を行うものである。

(ニ) シンチグラフィー

組織や病変の種類によつて放射性同位元素の組織内導入率が異ることに注目した診断法で32Pがよく利用される。ロウ=ビアによつて応用され乳癌では放射能が高く診断適中率は八六%と報告された。我国では藤森らの追試があるがまだ確実性は十分ではない。

(ホ) 細胞診検査

乳頭分泌物を塗抹染色して細胞学的に検査し乳癌細胞を発見する方法である。しかし乳頭分泌の症例は少ないので刺穿針による吸引を行つて検査する方法がある。

(ヘ) 補助診断法の有効性及び普及度について

現在補助診断法として重要視されているのはマンモグラフィー、ゼログラフィー、及び超音波診断法である。これらは一長一短であり、ある検査法で陰性のものが他の検査法では陽性の結果が出ることがあるのであり、視診、問診、触診等通常の診断法と合わせて総合判定すれば、診断率はかなり上昇する。昭和四二年から同四五年にかけて全国の大学、研究所の乳癌専門家一二名(本件鑑定人藤森正雄もその一員)が厚生省の支援でガン研究班を組織し、乳癌の診断等に関する研究を行い、昭和四五年その研究報告をまとめた。それによると、右一二名の研究員は乳癌に関する専門家であり自己の触診の結果には自信を持つ医師であつたにもかかわらず、直径二センチメートル以下の早期癌の触診による診断率は31.8%に過ぎず(T1N0M0の段階、TNMは乳癌の進行段階の分類法、Tは腫瘤の大きさを表わしT0は触知不可能なもの、T1は直径二cm以下、T2は五cm以下、T3は5.1cm以上である。Nはリンパ腺の濃度、Mは骨や肺への転移の有無、程度を表わす。)、T2N0M0の場合には66.7%の診断率であつた。しかしマンモグラフィーによるときはT1N0M0で46.7%、T2N0M0で75.7%であり、ゼログラフィーではT1N0M0で68.4%、T2N0M0で89.3%の高率となり、超音波診断法ではT1N0M0で52.8%、T2N0M0で69.2%であつて、いずれも触診(前記のとおり乳癌診断の権威者によるもの)による診断率より高い数値を示している。

この研究成果は文書になつており、又藤森らも学会や様々の研究会で発表しているので大学関係者の間では殆んど常識となつている。

京都地方においては昭和四四年頃迄は京都大学、京都府立大学でもマンモグラフィーやその他の補助診断法は用いられていなかつたが、その後昭和四八年頃から京都大学にゼログラフィー等が導入されはじめ、現在では両大学ともマンモグラフィー、ゼログラフィー、超音波、シンチグラフィー等の設備がある。もつとも鑑定人美馬陽(昭和二二年から同四四年まで京都鞍馬口病院院長、四四年から同病院名誉院長)は昭和三四年頃から同病院でマンモグラフィーを始め、レントゲン線量、感光板、体位等に工夫をこらして乳癌診断に応用していた。なお京都市は昭和五三年超音波の検査器械を購入し京都ガン協会に委託してこれを用いて検診を始めようとしたが、読影のできる医師がなく約一年間使われないままであつた。

このようにマンモグラフィー、ゼログラフィー、超音波診断法はそれぞれ二〇年程度あるいはそれ以上の歴史を有し、昭和四五年には厚生省の後援による乳ガン研究班がその有効性を是認する研究発表をしていたのであるが、本件手術の行われた昭和四八年当時はこれらの検査法は京都では普及しつつある段階にあり、一般の開業医にとつて右の補助診断法を利用することは必ずしも容易ではなかつたと認められる。

(三)  生検

手術的に組織を採取して確定診断をつけるのが生検であり、癌か否かの最終的な決め手である。生検には腫瘤を部分的に採る切除生検と、全部摘出する剔除生検との二つの方法があるが、切除生検は腫瘤にメスを入れるため、癌細胞が血行転移を起こす可能性があり危険を伴う。したがつて剔除生検が安全で合理的である。剔除生検をした結果良性と判れば手術はそれで済み、更に大きな侵襲を加えることがない。しかし悪性すなわち癌と判れば根治手術をしなければならず、生検と右手術との期間は短い方が安全である。

そこで最近では手術中に腫瘤を摘出し、これを凍結して迅速標本を作り直ちに病理組織学的検査に回して良性か悪性かを決定し、悪性と判れば引き続き乳癌の根治手術を行う方法も行われている。一時期生検と手術との期間が数日しかない場合でも危険視されたことがあつたが、最近では二週間以内ではその予後に変わりはないとされている。又一般に私立病院で手術する場合は迅速切片を使つても大学病院で直ちに病理検査をしてくれるということはなく、私立病院では右の方法は不可能であるが、大学等に組織検査を頼んだ場合普通一週間程度で検査結果がわかるので、悪性とわかつたときは前記二週間の期間内に根治手術を行うことは可能である。

なお生検は京大病院や府立医大病院では戦前から行われていた。

第三被告の責任について

一診療契約の成立

被告が本件手術当時、石野外科病院を経営していたこと、原告は昭和四八年八月一日被告との間に自己の右乳房下方にあるしこりについて適正な診断と治療をなす診療契約を締結したことは当事者間に争いがない。そして前記第一認定の事実によれば、為森慶造、行森清治、山本剛史の各医師は被告の履行補助者というべきである。

二乳癌誤診の責任について

(一)  本件の原告の乳房の腫瘤は乳腺線維腺腫であつたのであり乳癌ではなかつた。これを行森医師は視診、問診、触診という通常の診断方法だけで「癌なるべし」と診断し、同医師の右診断を他の医師は信用し、線維腺腫であれば皮膚を切開して腫瘤を摘出するだけの簡単な手術で済み、創痕もさして残らないで終つた筈が、右誤診により原告は乳房切断術を受けて右側の乳房を失い、のみならず醜い創痕を残す羽目に陥つたのである。

そこで右行森医師らの診断に過失がなかつたか否かを検討する。

(1) まず同医師が乳癌と診断した根拠の一つは腫瘤の表面に凹凸があつたことであるが、昭和四八年八月三日山本医師らが摘出した腫瘤の形は同医師の描いたカルテの図〈省略〉によればほぼ球形をしており、行森医師の触診による所見である凹凸が果してあつたのかどうか疑問としなければならない。仮に触診により凹凸が真実あつたのであればこれは乳癌であることの根拠である(前記認定のとおり線維腺腫では表面は平滑)が、固さの固い(hart)という所見は積極的に乳癌を肯定するものではなく(癌は前記のとおりエラステイッシュデルブとされこれは証人為森医師も認めるところである)藤森正雄の鑑定結果によれば一般に線維腺腫の方が癌よりも固い(hart)とされているのであり、線維腺腫を疑う所見といえる。証人行森清治の証言によれば強い癒着はなく可動性はある程度あつたこと、腋窩部リンパ腺への転移はなかつたこと、その他ディンブリングや皮膚の異常はなかつたというのであるから、視診、触診の結果から癌を裏付けるものは表面の凹凸と固さ以外にはなく、さほど強い根拠があつたとはいえないといわなければならない。

これに対し問診の結果からするとむしろ癌でない疑いが強い。すなわちカルテに記載されているように五、六年前からくるみ大の腫瘤があり、最近少し大きくなつたような感じがあるという程度の腫瘤の発育状況、期間からすると癌ではなく線維腺腫の疑いが強い(藤森鑑定)というべきであるし(もつとも癌でも稀にはそのような経過を辿るものである)、原告の年令は当時二九歳であり、前記報告例によれば二六歳から二九歳の乳腺腫瘍は線維腺腫が五五%で最も高く癌が一一%、乳腺症は二七%であるから、年令の点からも線維腺腫の好発年令であつたのである。

このようにみてくると視診、問診、触診の結果だけから「癌なるべし」という確診に近い診断を下すことには慎重でなければならず、行森医師の診断は安易に過ぎたというべきである。

のみならず前記証人行森清治、山本剛史、為森慶造の証言によると被告は多年の経験から補助診断法を用いない診断に強い自信をもち、石野病院では被告の最終決定権が強く本件の場合も手術当日の朝被告が回診し、手術の実行に異を唱えなかつたことが山本剛史医師らをして直ちに手術を実施せしめることになつたことが認められ、被告本人は自ら直接原告を診察したようなことをいつているが原告本人尋問の結果によると被告は自ら原告を触診等の診察をしたことはなく回診時に一瞥しただけであるから、いかに被告に多年の経験があろうと触診もせずして若い医師の診断に委せたまゝであつたことは失当といわねばならない。

(2) 右のとおり原告の腫瘤は直径約三センチメートルであり仮に癌とすれば前記進行段階の分類法によるとT2であり、癒着や皮膚の異常、転移は認められなかつたから早期の癌とみられる。前記認定のとおり日本の乳癌の権威者一二名の研究報告でもT2N0M0の段階における癌の触診による診断率は66.7%であるのであり、触診、視診、問診のみで本件のごとき腫瘤を癌と診断することは極めて危険であつたといわなければならない。昭和四八年当時は前記癌研究班の研究報告があつてから三年を経ており、被告の如き開業医であつても補助診断法の有用性を知る機会は十分にあつたと認められるから、本件のように腫瘤を明らかに癌と決めつけるような所見がなかつた場合には被告及びその履行補助者たる医師らは前記種々の補助診断法を試るべきであつた。

もつとも当時は京都においては超音波診断法やゼロラジオグラフィーはそれ程普及しておらず、証人行森清治の証言及び被告本人尋問の結果によれば当時被告の経営する石野外科病院には通常用いるX線の設備はあつたが乳房専用のX線装置はなく、その他の補助診断用の器機も備えられていなかつたことが認められるが、被告は自己の病院で補助診断法を実施できなくとも少くともマンモグラフィーを他の診療機関(例えば鞍馬口病院では昭和三四年頃からマンモグラフィーの研究をしていた。)に委嘱するなどして診断の正確性を図ることが可能であつたといえる。

被告はマンモグラフィーを撮つても癌と診断することはできず、役に立たない旨供述し、石野外科病院の他の医師も同旨の供述をするが、腫瘤のX線像の濃度、周辺の状況等から癌と良性の腫瘍との鑑別診断が可能であることは前記認定のとおりであり、又日本の乳癌の専門家一二名の研究報告でも触診よりマンモグラフィー等の補助診断法による方が診断率は高かつたのであり、更に又鑑定人藤森正雄の鑑定の結果によれば本件で補助診断法を用いておれば生検をせずとも正確な診断がついたであろうというにあり、仮に被告ら石野外科病院の医師らが補助診断法を併用しておれば正確な診断が可能であつたと推認されるので、被告らの前記供述は到底採用できない。被告は日々進歩する科学的な診断方法に目を背け、長年の臨床経験を通じて体得されるいわば名人芸たる触診に固執しているという謗りを受けなければならないであろう。

(3) 仮にマンモグラフィー等補助診断法を委嘱する適切な病院、施設がなかつたとすれば、被告及びその履行補助者たる医師らは当然生検をすべきであつた。

証人山本剛史の証言によれば大学病院は勿論普通の診療機関は殆んど生検を行つているというのであり、鑑定人藤森正雄は本件ではまず補助診断法を実施すべきであり、その段階で確診はつくと思うが、それでも的確な診断がつかない場合は当然生検をすべきであつたろうと述べ、鑑定証人美馬陽の証言によれば視診、問診、触診の結果、癌であるという確信を持つ場合、疑わしいと思う場合、癌でないと思う場合がそれぞれ想定されるが、そのいずれの場合も生検なり補助診断を行うべきであり、外科医の常識として通常の視診、問診、触診だけでメスを執ることは考えられないというのであり、右証拠を総合すれば、一般に通常の診断法で乳房の腫瘤を発見した外科医師としては補助診断法又は生検をして確診をつけてから手術に踏み切るのが常道とみられ、被告らの前記措置は異例かつ不当といわなければならない。

被告は生検をすれば切片の切除により癌細胞を全身に拡大するおそれがある旨主張し被告本人尋問においても同旨の供述をする。しかし被告の主張する生検は前記切除生検のことであり、生検のうち切除生検は被告の主張する通りの危険があるから剔除生検が安全かつ合理的とされているのは前記認定のとおりであつて被告の主張はその前提に誤りがあるのみならず、病理検査の回答は一週間程度で判明し、生検から手術までの期間が二週間以内であれば安全とされているのであるから、生検として剔除生検を行い、癌と判明すれば二週間以内に手術を行なえば癌細胞の転移という事態を避けられると解され、被告の前記主張は到底採用できない。

鑑定人美馬陽医師の証言によれば、同医師はこれまで乳癌の手術を七八六例行つたが、その中には誤診例もあり、視診、問診、触診をしたうえレントゲン撮影をして癌に間違いないと思い、生検をせずに手術したが実は癌でなかつたという例が四例あつた、もし生検をしていればこんなことはなかつたであろうというにあり、本件では前示のように視診、問診、触診までの所見でも必ずしも癌と断定し難く、その他の補助診断法も採用しなかつたのであるからなおさら生検をすべき症例であつたことは明らかである。

(二)  被告は良性の線維腺腫であつても悪性化のおそれがあるから視診、触診により癌の可能性が高いと判断すれば乳房全体を切除して病気の根源を断ち切り患者の不安を一掃することが正しい治療方針であるという。

そこでこの点につき検討するに鑑定人藤森正雄の鑑定の結果によれば、線維腺腫が悪性化するということは日本の病理学者の間では殆んど否定的であり、仮に線維腺腫の悪性化した症例報告があつたとすれば、それは実は線維腺腫が悪性化したのではなく線維腺腫と癌とが元々共存していたとみるのが最近の病理学者の意見であることが認められるのであり、線維腺腫が悪性化することは殆んど考えられないというべきであり、従つて生検をしたうえ正確な病理診断がつけば臨床家の方ではこれに従つてよいと解される。

もつとも鑑定人及び鑑定証人美馬陽の鑑定結果及び証言によれば、生検の結果病理学者の意見として悪性細胞の明らかなものは認めないが、細胞の配列、染色パターン、核の形状や分裂状態から将来に不安を残すという回答のあつた症例や、病理学者の間で悪性か否かの意見が異つたような場合のあつたことが認められ、病理学者でも確信がつかないような事例のあることは否定できないが、そのようなときは臨床家たる外科医師としては右の病理学者の見解に合わせて自己の触診、問診、視診及び補助診断法による診察結果とを総合して手術の要否を慎重に判断すればよく、病理検査が必要かつ有用なことは明らかである。

仮に被告主張の如きことがいえるとすれば、鑑定人藤森正雄が指摘するとおり、癌であろうが線維腺腫であろうがすべての場合に癌と同じ手術をした方がよいことになりその不当なことは論を俟たず、被告の主張は到底採用できない。

(三)  被告は手術を受けたが癌でなかつたことがわかつた場合はむしろ患者と医師とは手をとり合つて喜ぶものであること、本件でもし仮に癌であれば原告は若年であるから発育や転移が速く、手術が手遅れになれば取り返しがつかないのであり、被告は人の命は何としても救わねばならないという立場から手術に踏み切つたものである旨主張する。

確かに真実は乳癌であるものを乳癌でないと誤診した場合の事の重大さに比べて本件は罪が軽いというべきであろう。しかし前記認定のとおり乳癌の診断方法は近年に至り次々と新しい機械が開発されるなどして進歩しており、又触診の重要性も相変わらず指摘されていることは乳癌の早期発見という要請も勿論その動機であるが、真実乳癌であるものを正しく乳癌と、真実乳癌でないものは乳癌でないと診断することにより、それぞれに適した治療法を採用するためであることは明らかである。さもなければ乳癌の疑いがあればすぐさま乳房切断を含む根治手術をすれば足ることになり、何も面倒な診断方法を開発する必要はない。

乳癌の定型的根治手術は大胸筋の切除、腋窩の郭清という強度の侵襲を伴う、いわば女性の象徴である乳房の切断であり、かつ本件のように重篤な術後感染症さえ伴つた大手術であり、これは癌疾患が、放置すれば必ず生命を奪う病気である為やむを得ない処置というべきである。したがつてたとえば単に胃潰瘍を胃癌と誤診して胃切除を行うような場合とは異なり、乳癌でないのに乳癌と誤診されて右の大手術を受けた患者の精神的苦痛は察するに余りあり、癌でなかつたからといつて喜ぶ性質のものではないであろう。腫瘤を自分で発見した女性はできれば癌でないことを願いつつも正しく診断されることを期待して医師の許に赴くのであり、安易に癌の診断を下して乳房を切断し、病理検査の結果癌でなかつたから喜べというのはいささか医師にあるまじき驕りがあるといわれても致し方なしといわざるを得ない。

又本件において腫瘤は五、六年前からあつた(カルテの記載)のであるから、仮に癌であつても初診後三日目に急いで根治手術をしなければならない程急を要したとは到底言えない。

(四) 以上の次第で被告及びその履行補助者たる行森医師らが、補助診断法及び生検を一切せずに前記所見だけで安易に真実は乳腺線維腺腫であるものを乳癌と診断したものであり、原告の乳腺疾患につき医師として適切な診療をすべき義務に違反することは明らかであつて、被告は次に認定する化膿を起こした責任と含わせて原告の後記損害を賠償する責を負うといわねばならない。

三本件術後の化膿の原因及び被告の責任について

〈証拠〉によれば次のとおり認められる。

(一)  本件の化膿は術後五日目の昭和四八年八月七日に発熱し翌八日に排膿のための手術を受けたものであり、手術から発症までの期間、化膿の程度からみて術中の細菌、それもぶどう球菌の感染症とみることができる。

(二)  一般に術中感染の経路としては次のものが考えられている。すなわち

(1) 医師、看護婦に由来するもの

医師らの鼻腔からの飛沫感染、手術者の手指及び手術器機材料の消毒不足等、これはマスクの着用及び十分な消毒により防止できる。

(2) 手術室の空中の細菌

これは避けるのは困難である。大学病院等では最近滅菌室が作られているが、一般の私立病院でこれを備えているところは少ない。又滅菌装置によつても空気中の細菌を一つ残らず殺すことは不可能である。空気中の細菌は仮に皮膚や創面に落ちても消毒薬が塗つてあることもあり、又体の抵抗力もあつて化膿しないことの方が多い。

(3) 患者側に由来するもの

患者の体表面に付着しているもの、これは術前の皮膚の消毒により殺菌できる。その他術後患者が創口を手で触れたりして感染するものがある。

又創内、体腔内の血腫は感染源となり易いので、術者は正常組織を術中に挫滅しないよう注意すべきである。

(三)  細菌が体内に侵入した後化膿を生じる機縁としては次のものがある。

(1) 感染起炎菌が患者に投与されている抗生物質に耐性を持つていた場合

(2) 患者の抵抗力が弱く化膿しやすい体質の場合

(四)  以上の事実を前提に本件感染の原因を検討するに、鑑定人藤森正雄の鑑定によれば、戦中、戦前の手術室の消毒設備が不備な時代でも乳房の手術は殆んど化膿しなかつたが、新人の医者が手術をすると化膿することがあつたことが認められること、前記認定の感染経路のうち本件では術後原告が創口に手を触れたというようなことは想像できないこと、又空中に浮遊している細菌が創面に落下しても原告の感染症の如く重篤な症状を起こしたとする可能性は極めて低いと考えられること等を総合すると、感染の原因は医師、患者、手術器材等の消毒不足等被告側の責に帰すべき事由によるものと推認するのが相当である。

〈中略〉本件化膿の原因を術後投与されていたピクシリン(アンピシリン)に対する耐性を持つブドウ状球菌であると証言しているのであるから、もしそれが真実であれば一層早期に感受性テストを行ない、原告の化膿菌に有効な抗生物質(例えば化膿後投与され有効であつたと推認されるセポラン(セフアロリジン))などを選択すべきであつたといえる。

右のとおり、原告の前後の重篤な感染症の原因は手術に際しての消毒不足と推認するのが合理的であり、かつ術後の創面の管理観察が不十分であり、細菌感受性検査をせず漫然とピクシリンを投与していたことも発症の一因となつたと認められるのであり、被告はこの感染症を起こしたことについての責任を免れ得ないというべきである。

第四原告の損害

一慰藉料 四二〇万円

前記認定のとおり原告は乳癌の根治手術として右乳房及び大胸筋の全部を切除及び腋窩の郭清(リンパ節を一個ずつしかももれなく除去することは困難であるので血管、神経以外の組織を全部摘出すること)を受け、その結果前掲検甲第一ないし第三号証によれば右腋から右胸部前面にかけて斜めに皮膚の縫合痕(これに交わるように数本の縫合糸の跡もある)が走り、又膿排出術の際皮膚緊張を解く目的で皮膚欠損を残したまま縫合されたため、乳房のあつた付近は皮膚がなくて白い組織が露出した醜い瘢痕となつており、更に右腋下から背部にかけても三個所の排膿のための切開創が残つている状態であることが認められる。一方証人山本剛史の証言によれば乳腺線維腺腫の手術であれば乳房の目立たないところに二ないし三センチメートルの皮膚切開を加えて腫瘤だけを摘出すればよく創痕もあまり残らないことが認められるのであり、正しく診断されておれば乳癌の根治手術に比して比較にならない程少い侵襲及び小さい手術創で済んだのである。

そこで原告の損害につき検討するに、まず大胸筋の切除により右肩及び腕の連動機能にある程度の障害を残していることは容易に推認され、又前胸部に醜い瘢痕が存在することも原告にとつて甚え難い苦痛であろう。しかし何よりも年若い(当時二九歳)原告にとつて右乳房を失うことは容姿及び家庭生活において大きな支障を生じるばかりでなく、乳房は女性の女性たる所以のところのものであり、いわば女性の象徴といつてもよい程の肉体の一部であるから、片方とはいえこれを失つた精神的苦痛は察するに余りある。原告本人尋問の結果によれば原告は右乳房がないことを隠すため下着等に工夫を凝らしているというのであり、又今後結婚ということを考えると夫婦生活及び育児(授乳)の場面においても右乳房の喪失は重大な影響を与えるであろうことは容易に想像できる。原告は本件手術後昭和五一年から夫と別居しており証人森田勝の証言、原告本人尋問の結果によれば本件手術と離婚とは直接の関連はないというものの、当裁判所は離婚の原因として本件手術の結果が無視し得ぬ程度に関与しているのではないかと推測する。

このようにみてくると原告の蒙つた精神的損害は極めて大きいというべきであるが、被告及びその履行補助者である医師らは乳癌と診断した故に診断上の過失があつたとはいえ原告の生命を救うべく速かに本件手術を施したもので本件は医療行為として行われたものであるから違法性の評価にあたつてはこの事情は十分斟酌すべきであるといえる。

その他被告の履行補助者たる医師の過失により前記重篤な術後感染症を招来し再手術を余儀なくされたこと及び前記誤診の態様、原告の身上関係等諸般の事情を総合勘案し、原告に対する慰藉料は金四二〇万円をもつて相当と認める。

二〈以下、省略〉

(菊地博 川鍋正隆 天野実)

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